水晶のように透き通った濁りのない瞳が、真っ直ぐに僕を見つめていた。 「あのねリチャード、お願いがあるの」 さらさらとした長い髪が揺れる。大人の姿に成長したソフィは美しかった。フォドラの核から脱出し、シャトルの一室で休んでいた僕の元に訪れたソフィ。まだ見慣れぬ姿に鼓動が早まるのが自分でもわかった。幼い容姿の頃には頭の上で結っていたツインテールを解き、クロソフィの花びらにいたその長い髪は今は背中に垂らしている。それが余計に少女から女性への変化を感じさせて僕から冷静さを奪っていく。 身長にしてもそうだ。 以前は胸ほどまでしかなかった彼女の背。見下ろせば見える旋毛が可愛くてよく頬を緩ませたものだ。だが、今は違う。大人の姿になった事で彼女の身長は高くなり、必然的に近くなった距離で僕は彼女の吐息を少しだけ頬に感じる事ができるようになったのだ。とても魅力的な距離感。リップを塗っていないはずなのに、薄紅を引いたように艶やかな唇から零れる彼女の息。それだけで僕を惑わす毒のように思えた。 「どうしたんだい、改まって?」 シャトルに備え付けられていたソファに腰を下ろしていた僕は、立ち上がり彼女の傍に近寄る。緊張しているのか、ソフィは扉の傍から一歩も動こうとしなかった。微かに、表情が固い。 「ずっとリチャードに言わなきゃって思ってたの」 「僕に?」 「うん、リチャードとお別れする前に言わなきゃいけないってずっと思ってたの」 見上げてくるアメジスト色の瞳には熱い決意なるものが含まれていて、僕の喉が音を鳴らす。大気圏を突入したシャトルが一番最初に向かうのはフェンデルの都市ザヴェート。確かに僕が彼女と別れるまでにもう少し猶予は残されているだろうが、この度が終われば再び再会するのはいつになるかわからない。僕には国王としてやる事は残されている。気安く友人の屋敷に遊びに出向く事も立場や自分の行いを顧みるとする事は許されない。そうすると、確かにこうして彼女と一対一の時間を取るのはこれでしばらくないかもしれない。彼女は何を告げよとしているのか。おのずと胸が妙な期待感で膨れ上がり、高鳴った。 「何かな?」 口がからからに乾く。まるで砂漠にいるようだ。さしずめソフィは灼熱の太陽といったところだろうか。彼女の砂漠に容赦なく降り注ぐ熱のような瞳に見つめられて、僕は柄にもなく緊張しているようだった。背筋は張を通したかのようにピンッとなり、顔が強張る。彼女も緊張しているのだ、何とかして余裕の無さを隠そうして口元を緩めてみるがまったく効果がないように思えて。その微笑みすら今は意識しすぎてぎこちない。 「あのね――」 さくらんぼのようにぷっくりと艶やかな唇が震える。彼女は少し伏し目がちに視線を逸らした。その瞳が潤んでいるようにも思える。頬は桃色に染まり、胸の前で組まれた両手は微かに震えている。緊張している彼女が可愛くて、愛おしくて、心が音を立てて揺れた。この冒険小説の最終章である勇者とヒロインの再会の場面を垣間見ているかのようなデジャブ。これは期待していいのだろうか。勇者とヒロインの再来を。 ソフィがそうして続きを口にした。 「わたしはまだ、あの秘密基地を使っても大丈夫かな?」 「は?」 おずおずと飛び出した言葉に一瞬、僕は思考を停止する事を必要とされた。 「前にリチャードが、もう僕は大人だから秘密基地は必要ないって言ってたでしょ? わたしも大きくなったから秘密基地を使っちゃいけないのはわかってるの。でも、きっと、これからも一人になりたいなって思う事もあうと思うの。アスベルの傍はとっても優しくて好きだけど、たまに一人で色々考えたいなって思った時に……、また使っちゃだめ?」 使っちゃだめ、なんて小首を傾げて非常に可愛らしい存在が僕を見上げてくる。零れんばかりの瞳が僕の姿を映し出していた。犯罪級に可愛いその姿でお願いされたら誰だって断る事ができるわけない。むしろ断るような人間がいたら国王命令で国外追放だ!だが、悶えたのもつかの間。僕は自分の自意識過剰な妄想に死にたくなった。かっと頬に熱が集中する。いや、火照っているのは頬だけではない。手の指先まで全身に熱が籠り羞恥で焼き殺されてしまいそうだった。嫌な汗が流れる。 「リチャード?」 僕の急な変化と不審な行動を不思議に思ったのか、それとも答えがない事に不安を感じたのか。彼女は眉間にしわを寄せた。小難しいというより、不安そうな色をその表情に表す。揺れる瞳が、彼女の決意を揺るがした事を伝えれていた。先ほどまでそこには糸を張り詰めたように揺るぐ事のない意志が窺がえていたのに、今は蜃気楼のような心が顔を覗かせている。彼女の心の中は、目の前の僕の事でいっぱいのようだった。僕の返す反応、答え一つで彼女の笑顔を奪う事ができるのだ。彼女に対して独占欲の蕾をつける僕にとっては少し嬉しい事だが、それ以上に今は申し訳がなかった。自分の浅ましい欲望の為に彼女を少しだけ傷つけてしまった。不甲斐ない。本当に僕という人間は不甲斐ない、何を期待していたというのだ。まったく僕という人間は……。 だからとても動揺していたのだ。彼女の悲しそうな顔は見たくない。 「ごめんソフィ……、僕はてっきり君が告白でもしてくれるのかと勘違いして」 気が付いたらとんでもない事を口走っていた。 「こくはく?」 「あ……、いや……」 「それをするとリチャードは嬉しいの? 喜んでくれるの?」 きょとん。そんな音がしそうな顔をソフィはした。大きくなったと言ってもその表情はまだ子どもだった頃と変わらない。いや、少しだけ豊かになったのだろうか。ともかく、成長した女性としての姿と子どものようにあどけない表情というギャップに僕の胸は再度高鳴りを覚える。 だが、その邪念を振り払うかのように僕は頭を左右に振った。ぶんぶんと音がする程に。 「確かに嬉しいけど今は君の話だよ、ソフィ」 「うん」 彼女は僕の言葉に素直に応じた。本当に成長しても内面はそのままで、姿だけ大人になったようなものだ。彼女の良さは目に見えて一つも損なわれていなかった。 「僕は 大人になったから 確かにそう言ったけどそれは姿だけの事じゃない。僕はあの秘密基地を使っていた頃よりも身長も伸びて、手足も大人のそれになったけど、心も一緒に成長したんだ。現実から目を背ける事なく、前に立ち向かっていける勇気を身に着けたから僕は逃げ出さなくなった。」 「……勇気」 「そう、君とアスベルが僕にそれをくれたんだ。だから僕は大人になれた、もう子どもの頃のように逃げ出す事はなくなったんだよ」 僕の告げた言葉をソフィは舌の上で転がすように何度も音にする。 「君は姿は大人になったかもしれない。でも、心はこれからまだまだ成長して大人に近づいていと僕は思うんだ。半年間、アスベルとラントで過ごしながらソフィはたくさんの事を学んだはずだ。世界の事、人の事、生きる事。再会して君を見た時一目で君が少しずつ大人の階段を登って行くのが見えたよ、姿はそのままでも心は確実に成長しているんだなって。今は姿は大人でもまだ心が姿に備わってないはずだ」 幼さを濃く残した丸い輪郭はしゅとしてなだらかな大人の顔になり、手足も伸び随分と表面的に大人に近づいたと思う。だが、彼女はまだまだこれからだと思った。白いキャンパスにこれから彼女の人生を描いていくのだ。それはまだ大人とは言わない。まだ、ソフィは子どもでいていいはずだ。大人になる事を彼女が望んでいた事を僕は理解している。人とヒューマノイドの違いから、せめて外見的な部分だけども成長したかったのだろう。でも僕はまだソフィに子どもでいて欲しかった。そしていつか、いつか、僕の心の奥底にある想いを知って欲しい。そう思うのは我儘だろうか。 「だから、いつでもあの秘密基地においで」 「本当!!」 「ああ本当だよ、嘘じゃない」 指先で頬に触れる。余程嬉しいのかその頬は火照るように赤く、触れた部分からソフィの熱がじんわりと僕にまで伝わってくる。痺れるようなその感覚。ああ、無理かもしれない。僕は彼女の事を好き過ぎて、ソフィが本当の意味で大人になるまで待っていられるだろうか。子どもでいて欲しいのに、早く大人にもなって欲しい。この身体を突き抜けるような炎を一緒に共有したい。 「もっとたくさんの事を知ったら、さっきの こくはく の意味もわかるかな?」 とんでもない爆弾だ。ピキンッと音を立てて僕の笑みが凍りつく。だが、ソフィはそんなものお構いかしに嬉しそうな微笑みをこちらに向けてくるのだ。眩しい。眩しすぎる。純粋ゆえの太陽は、本当に僕には眩しすぎた。 「わたし、リチャードが喜んでくれるようにたくさんの事を勉強するからね!あ、でもそうすると秘密基地が使えなくなっちゃうかな……」 「いいよ、急がなくても。ソフィがいつか秘密基地が必要なくなるまで僕はまっているから」 しゅんと項垂れる彼女を安心させるように笑いかけ、その前髪を掻きあげる。僕と君。二人きりの秘密の場所にきてくれるたった一人のお姫様でいつまでもいて欲しい。そう願いを込めて、愛しい人の額に唇で触れた。 いとしい白うさぎからの挑戦状(11.03.??) |