「泣いてもいいんだぞ」

自分の少し前を歩く小さな背中を見つめながら、先ほどその本人から投げかけられた言葉と同じ言葉をヒスイはベリルに投げかける。
シーブル村から少し外れた場所にある岬のほこらでは、今、まさにシングとコハクがスピリアを繋げる「はじまり」を口にしている頃だろう。羞恥が勝る二人を気遣い先にシーブル村へと続く森を入ったのは先ほど。ヒスイとベリルよりもまだ更に先を歩くイネスは随分と小さな影になっている。
ヒスイは自分の先を歩くベリルの子どもとも見間違うような小さな背中を見ながら、気がついたら先ほどの言葉を投げかけていた。明らかに沈んでます、懸命に明るく努めよう、自分で選んだ結末と書かれているその背中に。

「何でボクが泣くのさぁー。あのさ、ヒスイ。変に気を使わなくてもいいよ」

ベリルはこちらを振り向き呆れたように、少し複雑そうな幼さを残す顔をこちらに向けてくる。
先程、ベリルがヒスイに向けた言葉は意地悪を前提にした言葉だという事はわかった。だが、そこには彼女なりの気遣いというものがあったのではないか。好きな人と永遠の別れを終えた自分への、同情と共感と気遣いと・・・。そんなものが彼女の言葉にはあったのではないかと思った。
だから、ヒスイもきっと今同じような心境のベリルに言葉を投げかけてしまったのだろう。
彼女がシングの事を好きだという事を知っていたから。
きっとシング本人以外、コハクもイネスもリチアもクンツァイトはどうかわからないが、その恋心には気がついている。不器用な彼女なりに、皮肉屋な彼女なりに、育てた恋心を誰もが気づいていた。
その口にする事を自ら封じた想いをヒスイは知っている。彼も同じ想いを胸に抱いていた者だから。

「それに心配しなくてもボクはコハクからシングを取るような事なんてしないし」

そう言うとベリルはのろのろと歩いていた足をピタリと止める。
上を向いていた顔を俯けるように下に向け、自分の爪先を見つめているようだった。
ヒスイからはその表情まで完全に読み取るような事はできない、だが泣いている訳ではないようではぁ〜っと深い溜息をついたのがわかった。

「誰がそんな心配するかよ。お前は態度はでかいがそんな仲間を裏切る事や傷つける事はしねーよ」
「態度はでかいって何だよ!!偉そうな事いうヒスイの口には敵わないと思うけど!!」

自分よりも随分と身長の高いヒスイの顔をベリルはくるりと身体を変えると見上げるように睨み付けてくる。大きな濃い瞳はヒスイの言葉に腹を立てているのがわかる。
だが、大きく瞬きをした次の瞬間には珍しくその怒りは瞳を奥底に封じ込めるように沈み、向けられる視線はどこか穏やかなさを含むものだった。

「ヒスイがボクに優しいなんて明日はきっと大雨、うんん大雪だね」
「なんだよ、それ」
「だってさぁー、本当にヒスイもシングもコハクコハクコハク。あ、違うか。ヒスイは途中からコハクよりもリチアリチアだったもんね。ボクに冷たいのなんのって、こんなにヒスイがボクに優しい言葉を言ってくれるなんてはじめてじゃないのー」
「そりゃ・・・、お前が」

シングが好きだったから気をつかって・・・、そう言いそうになってヒスイは言葉を口の中に閉じ込める。
だが、それだけでベリルには伝わったみたいだった。
大きな瞳が静かに揺れる。

「うん、ボクはシングが好きだったよ」

そう小さくきゅっと結ばれた唇からは言葉がはっきりとした音で告げられる。
ベリルはヒスイから視線を外し、小鳥が飛び交う空を視線を向ける。そうして口を開いた。

「ずっとボクはボクの事が嫌いだったんだ。シングとヒスイに出会った時もそう、疑いのスピルーンで心の中も真っ黒で何もかも信じられなくて、そんな自分も信じられなくて嫌いで嫌いで嫌いでたまらなかった。でもシングはそんなボクを助けてくれた、ボクの心の信じたいって思う気持ちを助けてくれた。凄くうれしかったんだ。こんなボクを助けてくれて、こんなボクを信じてくれて」
「ああ、それがあいつの良い所だ」

ヒスイも知っている。シングとはそういう少年だ。
バカ過ぎる程真っ直ぐで正直で素直で、他人の為に火の中でも水の中でも突っ込んで行ってしまう優しくて熱い少年だという事を。
ずっと同じく旅をしてきたヒスイにはそれが充分伝わった。またヒスイもそんなシング自身に影響され、成長した一人であるから。

「でも本当にバカっていう程鈍感でにぶくて。いつもいつもいつもコハクコハクコハクって、ボクの気持ちなんて気づきもしないでさ。無神経で乙女心をまったく理解できてなくて、その癖たまに罪作りな発言をしたりして・・・ボクの純粋な恋心を弄ぶようにしてくれちゃって本当にバカだって何度も思った。何だよ、って何度も思った。コハクコハクってシングが言うたびに、ムカッと腹を立てるたびにコハクの事が羨ましくて、ヤキモチをやいて、どうしようもなくそんな自分が嫌だった。だってボクは・・・」

ベリルが耐えるように震える唇を噛締める。
込み上げた感情が爆発するかのように喉までせり上げてきたのか、ぐっと飲み込むように大きく口を開けて息を吸い込む。肺いっぱいに。
そして。

「ボクはシングの事が好きなんだ!でも同じ位コハクの事が好きなんだ!!」

叫んだその声はボロボロと頬を伝う大粒の涙と混じるように掠れ、涙の色を濃く残す声で薄暗い森に反射するように響いた。ベリルの心の叫びだった。
ずっとずっと耐えていた堰が切れたのか、ベリルは大きな瞳を赤く染め上げて止める事ができない涙を零す。瞳から溢れた雫は頬を伝い、顎を伝い、重力に従い落下していくと地面に黒っぽい後を残し土に帰る。伝える事のできない想いを抱えて。
ヒスイにはそのベリルの気持ちが痛いほどわかった。
もし自分がベリルと同じ立場なら。リチアとクンツァイトと今とは違った関係を築き、そしてそれがベリル達のように形のないこの想いを巡る三角関係を表したものなら。
ベリルがシングに抱く想い、コハクに抱く想い。これと同じものを抱いていたらきっとベリルと同じ選択をするような気がした。リチアの想いが自分のこの胸に湧き上がる止める事のできない想いと同じものなら別だが、もし、気付かれる事なく自分だけがリチアの想いに気付いたらきっと。
そう思えば今のヒスイとリチア、クンツァイトの関係も似たようなものかもしれない。色恋しい色はないが、下した決断には後悔していない。
リチアの事が大切だ、好きだ、生きて欲しいと思うと同じ位にクンツァイトの事を信頼し、友情を感じる。それはきっとクンツァイトも同じ気持ちを自分に向けてくれているとわかるから。
ベリルもそうなのだ。
ベリルにとってシングは本当に恋をした好きな相手だとわかる。不器用で皮肉めいた感情の裏には複雑な乙女心が隠されている。同時に、コハクに対する友情も感じる。対照的な二人だからこそ惹かれあう何か、年の近い者同士だからこそわかりあえる何か、羨ましいと思うと同じ位に大切に思うその気持ちと向けられる友情。
それが小さなスピリアの中で葛藤し、悩み、苦しみ、決断を下した。
ベリルにしかできない決断を。

「シングとコハクには幸せになって欲しい。大好きな二人が幸せに笑う笑顔をボクはボクだけのキャンパスにいつか描きたいと思う。これはボクがシングを好きになった気持ちとコハクが好きな気持ちをずっと忘れない為に」

ぐずっと鼻を鳴らしながら、ベリルは袖の裾で涙にぐしゃぐしゃに濡れた顔を力任せに乱暴に拭う。何度も、何度も、込み上げる気持ちをかき消すように。嗚咽混じりに。

「それで、ボクはシングにもコハクにも負けない情熱的で感動的な大恋愛をしてやるんだ!二人が羨ましいって思うような、まるで絵画のように綺麗で美しくて誰もが憧れる恋をするんだ!!」

ぐっとまだ涙に濡れて潤む大きな濃い瞳をヒスイの方に、顔ごと向けるとベリルはそう言い放つ。泣き腫らした頬と鼻は赤く染まり、高ぶった感情をまだ落ち着ける事はできないのか肩は息をする度に大きく揺れていた。
それでもその瞳に宿る色は決意と普段の彼女が見せる勝気な色を宿していてヒスイは自然と口元が緩むのがわかった。

「言うじゃねーか。まぁ、お前には無理だとは思うけどな、そんななりで大恋愛なんて」
「むっきー!!!見てろよ、いつかボクだってイネスのようなボンキュボンになって男どもを虜にしてやるんだからな!!」
「おー、気長に楽しみにしておいてやるぜ」

先ほどの涙に濡れた顔とは打って変わり、まだ子どもにも見える童顔な顔にひっついている頬を怒りで赤く染め上げながら、ベリルはやっぱり優しいなんて取り消しだー!!などと訴えかけてくる。
だが、その顔こそ見慣れたベリルの姿だった。

「あーあ、騒いだらお腹すいちゃったよ」

そうして、ヒスイに背中を向けてまたのろのろと歩き出す。その後姿にはもう声をかけたいとは思わない、随分とすっきりとした顔が背中越しに見えたような気がした。

「仕方ねーから、今日は俺が腕をふるって作ってやるよ。シングとコハクの祝いだ!」
「ぐふふ、あとリチアとクンツァイトが無事にガルデニアを消滅させたね!」

自分達の抱える想いは何ともあやふやで形がなく、目に見えない不安定なものだ。
一つ間違えれば全てを壊す事もきっと簡単にできる。自分達が築いてきた友情も仲間も全て酷く傷つけてしまう事もできる。
大切だがやっかいな感情だと思う。
だが、この感情があるから恐怖に立ち向かう事も、前を向く事も、何よりも優しくなる事もできる事を知っている。ベリルが下した決断のように、ヒスイが願った別れのように。
相手を思い遣る事を教えてくれる。
ただ恋をした愛おしい人の為に願う。その人が恋をした人と幸せでありますように、その人が夢の中で幸せでありますように、その人を包み込む世界が幸せでありますように。
ただ口にできない想いを胸に秘めてそう願う。

ヒスイはゆっくりとした歩調で歩くベリルの後ろを同じようにゆっくりと歩きながら、そっとリチアとクンツァイトが眠るエメラルド色に輝く『星』を見上げ笑みを零した。






恋△友(09.05.10)