「おはようございます」
 ボサボサ頭のままのっそりと起き上がった兄さんにそう告げると、へにゃりと微笑みを浮かべた。




 
 兄さん達と行動を共にするようになって、ぼくは気づいた事がある。
 朝に相変わらず兄さんは弱い。昔から兄さんは朝に弱く、ぼくが起こすまで寝ていたものだ。起こしても結局は二度寝を繰り返し、最終的には寝坊を父さんに怒られてぼくが起こさなかったからだと無実の罪を被せられて兄さんに怒られていたのを覚えている。
 今も宿で同室になった場合、ぼくかマリクさんが声をかけるまですやすやと寝息を立てている所を見ると、騎士学校にいた頃もこのような感じだったのだろう。別に夜更かしをするわけでもないのだが、本人曰く『あったかい布団が恋しくて』などとボケた事を口にする。この寒いフェンデルでならわからないでもないが、それでも気合で起きるべきだろう。
 だが、一つだけ以前と違う事にもぼくは気が付いた。それは癖なのだろうか。
 兄さんはぼくが『おはようございます』、そう告げると必ずと言っていい程に笑みを浮かべる。へにゃりとした締りのない緩みきった笑顔を。それは初めて兄さんと同室になった日からそうで。その日は『おはようございます』、そう告げたぼくに兄さんは幽霊でも見たかのように驚愕した顔を浮かべて次いで笑った。それから三日その状況が続き、今度は安心したようにほっとした顔を浮かべるとへにゃりと笑うという日が何日か続き、今はぼくの声に返ってくるのは緩みきった笑顔と『おはよう』という兄さんからの挨拶だった。

「どうしてそんな嬉しそうに笑っているんですか?」

 ジャブジャブと水音を派手に響かせながら宿に設置された洗面台で顔を洗う兄さんに、ぼくは自分のベッドの上に荷物を広げながら出発の準備をしつつそれとなく問う。ぼくが洗面台に背を向けているので互いに顔は見えないが、細心の注意を払いながらぼくは兄さんの表情を盗み見るようにちらっと視線だけそちらに向ける。案の定、兄さんは特に気にした様子もなくふわふわのタオルに顔を突っ込みながら、くぐもった声をこちらに向けた。

「何がだ?」
「ですから、毎朝飽きもせずにどうしてそんな嬉しそうに笑ってるのかと聞いているんですよ」

 質問に質問で返されるとか思ってもいなかったからか刺々しい声が口から飛び出す。兄さんは理解力がないのだろうか。
 だが、兄さんは全く気にした様子もなく、ああ・・・などと一人納得すると手にしていたタオルを首にかけた。親父臭いのでやめてもらいたいのだが。これも、あのマリクさんの影響なんだろうか。兄さんは何でもかんでもマリクさんの受け売りを信じすぎだ。あの人は何か隠している、疑うに値する人だと何度も言っているのに彼は聞く耳を持とうともしない。まぁ、それは別の機会にでも忠告するとして今は兄さん自身の事だ。

「それはさ、お前が朝起きたらいるからだよ」

 何を言っているんだろうこの人は。

「はぁ?」

 同室なのだから、ぼくがいて当たり前なはずだ。確かに、兄さんが起こしても起きない場合は痺れを切らして先に食堂に降りる事もあるだろう。その他にも買い物に出たり、軽く運動をする為に外に出たり、席を外す事もあるだろうが基本的には兄さんを起こす役目があるからぼくは朝は宿から出ないようにしている。寝坊して、出発時刻に支障をきたされたらたまったものではない。ただでさえ、兄さん以外にも寝坊してくる人間はいるのだ。少しでも外的要因を排除するのが快適な一日の始まりだろう。 だから、ぼくは兄さんが目を覚ますまで部屋を出る事はしない。二度寝は責任持てないが、大抵の場合そこにいるというのに。
 しかし、兄さんの言いたい事は違うのか少し考え込むように眉根を寄せると、ベッドの脇にぼすっと腰を下ろした。

「何ていういうかさ、お前がいてくれるのが嬉しいんだ」
「―――っ」

 直球な言葉にぼくは言葉を失う。

「俺はお前がストラタに養子に出された後も騎士学校に入るまで、少しの間あの家で過ごしたんだ。一人で。毎朝目を覚ますとお前が俺を起こしてくれて、おはようって笑ってくれていたのが当たり前だった日常の中に一人取り残されたように、毎朝お前の姿を探してしまってさ。頭がはっきりしてくると突然思い出すんだ、ヒューバートはもうここにはいないんだって。おはようって俺に笑いかけてくれることもないんだって。そう思ったら無性に遣る瀬無くてさ、悔しくて、悲しくて」

 初めて兄さんの口から語られるぼくの知らない過去。ぼくは再度言葉を失った。いや、言葉を噤んだ。兄さんは、情けないだろ・・・、と自嘲的な笑みを零す。
 胸の奥がつきりと痛む。気のせいだ、そう流そうとして違和感だけが残り波紋を広げていく。当時のぼくは自分の事だけで精一杯で、置かれた状況や生活の変化。感情との決別。一つ一つ幼い心と頭で整理していく事をするだけで手いっぱいで、そうやって過去を振り返る事などなかった。いや、未練がましく振り返る事はあったが、思い出から切り取られたぼくは思い出に取り残された兄さんのように思いを馳せる事はなく、現実についていくだけでやっとだったのだ。今を思えば、それはそれでよかったのかもしれないが。現実を叩きつけられた方が、過去に浸るよりも未練を断ち切りやすい。否応なしに体が、心が、染まっていくしかないと絶望の内に覚えてゆくのだ。
 だが、兄さんは違った。ぼくと違い、あの兄弟での思い出が詰まった部屋で過ごす事で過去の亡霊に捕らわれてしまったのだ。ぼくという亡霊に。
 兄さんは寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら少し困ったように眉をゆがませ。

「でも今は目が覚めるとヒューバートが昔のようにいてくれて、おはようって言ってくれてさ。お前に、おはようって言えるのが嬉しいんだ。昔みたいに笑顔で言ってくれないのは少しさみしいけど、でも、お前がそこにいてくれるっていう当たり前の日常が戻ってきたんだと思うと無性に嬉しくてさ、ついつい顔が緩んじゃうんだよ」

 と、へにゃりとまた笑う。
 ・・・・・・、締りのないだらしない顔だった。嬉しそうな、幸せそうな、見ているだけで兄さんの心の内がぼくにまで伝わってきそうで咄嗟に視線を外す。
    
「な、なんですか、それは!?」
「変か?」
「へ、変ですよ! 大体、7年も離れて生活しておいて今更日常も何もないでしょう!ぼくにはぼくのライフスタイルが、兄さんには兄さんのライフスタイルができているはずです。だいたい当たり前の日常なんてぼくはもう忘れました、ぼくにはストラタに渡ってからの記憶しかありません」

 自分の口から、大嫌いな嘘が吐いて出る。嘘だ。嘘だ。嘘だ。ぼくはきちんと過去の事を覚えているじゃないか。思い出から切り離されたぼくは、一人自分の宛がわれた大きな部屋で。ラントの二人部屋に比べると小さいはずのそこは静かで冷たくて、ただ虚無感だけが大きく膨張した部屋で、ぼくは一人過ごした。それが胸の奥にこびりついて剥がれないだけで、過去の事を忘れてしまったわけじゃない。兄さんが朝に弱いのも。すんなり起きてきれないのも。よく起こさなかったと頬を抓られた事も全て覚えている。
 ただ、認めたくないだけだ。 なくした日常をこんな形で取り戻すとは思ってもいなかったから。
 ぼくは兄さんと比べて随分変わった。変わり過ぎた。その事を後悔する事も弁解する事もない。ぼくには変わるという事が必要だったのだ、幼い心を守るには。望郷を憎むと同じくらいにぼくが変わるという事は過去を断ち切るということに繋がるから。だが、そんなぼくが今更どうしてあの頃に帰れる。兄さんの思い描く日常の中に、今のぼくがどうして入っていけるだろうか。それは結局は過去との不一致を呼び起こし、違和感しか感じないのではないだろうか。
 ぼくは・・・・・・、もう日常には戻れないのではないのだろうかとどこかで感じている。
  
「でもお前、俺を起こしてくれるじゃないか」

 人差し指がこちらに向けられる。ふんわりと子供の頃に戻ったようなガキ大将の笑顔を顔に浮かべて、兄さんはそう言った。何も変わってないんだ、そう言うように。嘘を吐く事ないんだとそういうように。 
 
「お前にこうして毎日起こしてもらうのが嫌いじゃないんだ。昔もそうだったけど、今は余計にお前がちゃんと俺のそばにいてくれるって安心する。もう一人で泣いていないんだって思うと、酷くほっとして、嬉しくて、いつまでもこうしていたいって思うよ」
「ぼくがあなたと一緒に行動するのは閣下の御命令があったからです。この旅が終わればぼくはストラタに戻ります」
「まぁ、そうなんだけどさ」

 困ったように兄さんは視線を泳がせながら頬を掻く。唇は言葉を探すように歪み、必死にぼくに自分の胸の内を伝えようとしているようだった。そんな事しなくても十分伝わっているのに。変わってしまったぼくはそんな些細な言葉すら素直に受け入れられなくて、あの頃なら純粋に喜んで笑いながら首を振ったのに。ほら、もうここにはあの頃のぼくはいない。あの頃の日常なんてどこにもない。
 なのに、兄さんは

「でも、俺たち兄弟が一緒にいられるのには変わりないだろ。だから、やっぱりこうして何でもない毎日をヒューバートと一緒に過ごせるのは幸せなんだ」

 どうしていつもその壁を簡単に壊してしまえるのだろう。
 言葉が喉の奥でつっかえる。
 熱いものが胸の奥にこみ上げてくる。
 だけど、ぼくは昔のぼくのように素直さなんて忘れてしまっていて、真っ直ぐに自分の気持ちをダイレクトに伝えてくる兄さんのように伝える事なんて矜持と羞恥心が邪魔をしてできなくて。だから、ぼくは表情を隠すように眼鏡をブリッジを抑えると、こう言ってやった。

「仕方ありませんね。兄さんがそう言うなら、明日からも起こして差し上げますよ」

 そうしたら、兄さんはもう一度へにゃりと微笑みを浮かべた。















「ところで兄さん、どうして最初の頃はぼくを見て驚いていたんですか?」
「ああ、お前がいたからびっくりして」
「は?」
「だからさ、ヒューバートがいないのが当たり前だったのに起きたらいるからさ。幽霊なんじゃないかとびっくりしたんだ」
「・・・・・・」
「最初なんて本当に心臓が止まるくらいびっくりしたぞ。本当に幽霊じゃなくてよかったよ」
「あっそうですか・・・、今日限りで兄さんを起こすのをやめさせて頂きます(スタスタスタ)」
「えっ、ちょ、ヒューバート!?」





なんでもない日常は幸せの証(10.11.16)