*ED数年後のヒュパスから始まります。







「結婚するんです、もうすぐ」



 ジリジリと肌を焼くように照りつくストラタの太陽の下で、弟くんはそう言った。
 見上げた顔は初めて出会った頃のようにまだ幼さを微かに残す柔らかな曲線を既に失った、大人のそれで。この曖昧な関係が長い間続いてきたことを物語っていた。いつの間にか、彼はあたしの知らない大人の男の顔をするようになっていた。
  そのことにあたしは初めて気が付いたのだ。
   あの旅が終わって、随分と長い間。それこそ、弟くんがあの頃のあたしの年齢を追い越すくらい一緒にいて、今更。
 
 あたしは何を見てきたんだろう。
 
 ヒューバートと、どんなに無駄な時間を過ごしてきたんだろう。
 
 でも何か言わないといけないと口を開こうとするけど、口の中がカラカラで声が出ない。喉がひくついて、声が出ない。口を開きかけてあたしは喉を潤す為に手にしていた、バナナジュースから伸びたストローに口をつけてずずっと吸い込む。
 喉の奥は微かに湿り気を帯びたはずなのに、やっぱり声は出なかった。
 なんて答えようか。なんて言うべきか。そんな言葉なんて思いつかない。
 ストラタを訪れる度に彼がごちそうしてくれたバナナジュースのコップをくしゃっと微かに音が出るくらい強く握りしめ、あたしは隣に立つ彼を見つめる。太陽に負けない程熱い視線が注がれているというのに、その顔は雨が降り出しそうな程に曇っていて。彼が本当は少しも結婚について喜んでいない事を物語っていた。

 唐突に昔、弟くんのお兄ちゃん。アスベルが結婚をした時に聞いた言葉をあたしは思い出す。
 結局アスベルは長年の月日を経て想いを通わせたシェリアじゃなくて、お母さんが決めた女性と結婚をした。その結末にどれほどシェリアが傷ついて涙したか、あたしはソフィと一緒に一晩中シェリアと一緒にいたから知っている。泣き腫らした赤い瞳が痛々しくて、アスベル対して珍しく腹を立てて突っ掛ろうとするあたしに弟くんはこう言ったのだ。

『貴族にとって結婚は既に政治でしかありません。いくら兄さんに想う人がいたとしても、それは無駄な事。シェリアではこのラントが危機に陥った時に、助成金を積む事も地方領主を動かす事もできない。それではラントを守る事なんてできません。兄さんは、自分の幸せよりもラントの幸せを選んだのですよ。領主としてね』

 と。
 それはあたしにとっては酷く衝撃な事だった。だってあたしの周りにはそんな人はいなかった。フェルマーもお姉ちゃんも好きな人と出会って、恋をして、結婚を選んだ。それはきっとあたしもそうだと思っていた。実感も、予定もないけど、でもそれが普通で当たり前の事なんだろうなぁ〜、なんて思っていたのに。
 彼は違うという。

『リチャード陛下も近い内に貴族の娘を妃に迎え入れるそうですからね。これはぼく達、貴族社会で生きる人間には当たり前の事なんですよ』

 お決まりのポーズ。眼鏡のブリッジをくいっと上げる少しかっこつけな仕草を見せながら、淡々と彼は言った。 
 ぼく、達――と。
 あたしは急に胸が苦しくなる。その言葉に不安を覚える。
 こんなに苦しくて不安な気持ちなんてきっと、バナナパイが世界から消えてしまうとか、お姉ちゃんが目の前からいなくなってしまうとか、そんなありもしない現実を叩きつけられた時にしか味わえない。
 それはきっと。

『弟・・・くんも?』
『ええ、ぼくはオズウェル家の正当な跡取りです。兄さんと同じくオズウェル家を守る役目があります、だからいずれは同じ選択をするでしょうね。ですが、養父も健在ですし、何より軍での地位を確固たるものにする必要がありますから、ぼくが結婚するとなれば随分先になるでしょうが』

 ヒューバートがあたしの中でバナナパイやお姉ちゃんと同じくらい、大好きで大切な存在だから。
 
 だから、まるで他人事のように自分の将来を語る彼を見て、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けたのを覚えている。

 あと時、零れそうになる涙をぐっと堪えなければ未来は変わっていたのかな?
 泣いて、弟くんがあたしの傍からいなくなっちゃうのは嫌だって言ってればこの言葉は聞かなくてすんだのかな?
 ヒューバートと、結婚できたのかな?
 そうしたら彼は少し照れ隠しな笑顔をあたしに向けてくれて、こんな泣きそうな顔じゃなくて結婚を喜んでくれたのかな?

  今となっては、遅い事だけど。

「そうなんだー、おめでとー!!ついで大佐に昇進だったよね〜、これはお祝いを奮発しなくちゃ!」

 でも、あたしは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 口から飛び出た言葉は感情とはまったく逆の言葉で、浮かべた表情は心を裏切った“あたしらしい笑顔”で。嘘や騙す事が苦手なあたしが上手に弟くんを騙せるかわからなかったけど、でも、精一杯に明るく務めた。きっと彼は悲しそうなあたしの反応を求めていない。あたしに祝福してもらう事を求めている。
 
 だって、ヒューバートはあたしの気持ちなんて知らないから。
 だって、あたしもヒューバートの気持ちなんて知らないから。
 
 惰性でだらだら続けてきた友情ごっこを、あたしは最後まで演じようと思った。本当、演技なんて自信ないけど。昔、白雪姫だっけ? あれで鏡の役を演じたきりだけど。

「ありがとうございます。そうですね、一つだけパスカルさんから貰いたいものがあるんですが」
「なになに? 何でも言ってよ〜。他ならぬ弟くんの頼みだからね、あたしにできることならなんでもやっちゃうよ〜」

 ほっとする。どうやら弟くんにはバレてないみたい。
 昔、嘘が嫌いだと言っていたから。嘘を見抜くのも上手だから、内心ヒヤヒヤしてるんだけど。弟くんは怒った顔一つしていない。普段と変わらない、クールそうな表情を見せているだけ。

 だと、思ったのに。

 気が付いた時には力強いその腕に引き寄せられていて、飲みかけだったバナナジュースを落としてしまう。大好きなバナナジュースのはずなのに、もったいない。そう思う前に、びっくりするくらい近くに弟くんの顔があって、あっと思ううちに唇に暖かいものが触れた・・・・・・、のだと思う。
 あまりに一瞬の出来事で温もりや感触を味わう前に、距離を取られる。それでも吐息が唇にかかる、まじかで見る弟くんの精鍛な顔立ちにあたしは頭の中が真っ白になった。

「さようなら、パスカルさん」



 ヒューバートとの最初で最後のキスは、恋愛小説や漫画で見るような甘酸っぱいものじゃなくて。甘ったるいバナナジュースの味がした。


























「て、のはどうかな? 弟くん!!」

「な、な、な・・・・・・、なんですかそれはーーー!!!」

 ぶわっ。と、盛大に口からバナナソーダを噴出しながらぼくは叫んだ。
 座っていたイスはガタンッと派手な音を立てて倒れ、ユ・リベルテで有名なオープンカフェはいきなり叫び出したぼくに奇怪と好奇な視線を送りながらざわつく。そんなもの気にならないくらい、目の前の人物が口にした言葉が衝撃的過ぎて。普段冷静沈着、クールで鬼少佐と言われているぼくはその欠片も見せつけ慣れない程に動揺していた。動揺しまくっていた。

 い、今、この人は何を話した。
 なんと言った。
 ていうか、どうしてパスカルさんはそんな冷静にバナナジュースをじゅるじゅると音を立てながら飲んでいるんですか。

 普段なら、すかさず行儀が悪いと注意を飛ばす所だが、今は混乱のあまりぼくは意味不明な言葉を発している。らしい。記憶がないので、その辺りはすっ飛ばして話を進めようと思うが、とりあえず、ぼくはパスカルさんの言葉に、酷く、動揺、していた。

「何って、これからのあたしと弟くんの可能性の一つだよ〜」

 きょとん。という効果音が似合うくらい瞳をぱちくりとさせながら、パスカルさんはぼくの顔を不思議そうに覗き込む。
 真っ赤だよ、どしたの? なんて、可愛らしく上目使いでこられると。うっ・・・、これは非常に心臓に悪い。
 パスカルさんを直視できなくて視線を逸らす。と、周りの景色が自然と視界に入ってきた。ぼくたち二人を見てくすくすと笑う年配の奥様方。訝しげな表情でこちらを睨む老紳士。指をさして大笑いしている子供とそれを咎めがらも口元が緩んでいる母親。今までまったく気にならなかったが、一気に回りに人がいる、オープンカフェだという事を思い出し、ぼくは慌てて椅子を立てるとすとんっと音を立てて腰を下ろした。
 ここは人通りもある商業区のカフェだ。オープンということは、すなわち開放的で外に座席が設置されているということで。もしかしなくても、通行人にもぼくの声を聞かれていると思うと、もう、このまま、砂漠に埋まりたいと本気で思うくらいにぼくは顔を赤く染め上げた。
 それはもう。耳も首筋も真っ赤なくらいに。
 このストラタへ渡ってきてからこんなに恥ずかしい事はあっただろうか。いや、なかった。あの旅のさなかでも、顔から火が飛び出るくらい恥ずかしい思いはしたことない。いや、あのザヴェートとでの演劇はそれなりに恥ずかしい思い出だが、あれはぼくの住まいとは違うフェンデルの地で。ここはぼくの住まう屋敷のあるストラタのユ・リベルテで。
 あああああ、誰かぼくを本気で砂漠の中に埋めてくれないだろうか。

「で。どうして、そんな可能性に結び付いたんですか?」

 ぼくは火照った顔を冷やすようにして、バナナソーダを一気に飲み干す。しゅわっとした喉越しが心地良い。爽快感が胸の中に吹き抜ける。
 
「だってさぁ。弟くんが、貴族は結婚も政治の一部で政略結婚が多いとか言うから。こんな未来もあるんじゃないかなぁ〜って、思ったわけ」
「別に、全てが全てだとは言ってませんよ」
「ん〜。でもこれって可能性の問題でしょ? だから、やっぱり研究が趣味のあたしとしては様々な可能性を考えておくべきかなぁって思ったんだ」

 先ほどからぼくの目の前で得意げに話していた、パスカルさんの話。その物語の登場人物はお判りの通り、ぼくとパスカルさんで、その話の内容もぼくとパスカルさんの恋物語・・・・・、のようなもので。確かにぼくが以前にパスカルさんと出会った時に貴族や王族の恋愛観や結婚について話したような気もするが。それはそうかもしれないが、だが、いきなり数年後のぼくとパスカルさんのごにょごにょな展開にすっ飛んでしまうのもどうだろうか。
 そ、そもそも。バナナパイと同等の扱いなんて、ぼくもフーリエさんも不憫過ぎないだろうか。いや、それはパスカルさんなりの愛情表現だとしてもバナナパイ。バナナパイと同等に好かれているという事を喜んでいいのか、悲しんでいいのか。正直判断に困る。
 だが、ぼくは向かいの席で幸せそうな顔をしてバナナパイを口いっぱい頬張るパスカルさんに何も言う事ができず、ただ溜息を吐く事しかできなかった。

「で、どうだった?」
「何がです?」

 パスカルさんの口元がにやっと歪む。

「あたしと弟くんの将来の可能性!!」

 ビシッと音を立てて目の前に人差し指を差し出される。
 その顔は満足そうに笑っていて、無性に腹が立った。こっちはひたすら今日の事で頭がいっぱいで、そんな余裕などどこにもなかったというのに。この人はどこまでぼくをバカにしたら気がすむんだろうか。あんなに取り乱して、動揺したぼくがバカみたいじゃないか。

「別にどうともしません。あれは貴方が作った空想と妄想でしかないでしょう」
「えーーー!! あれを考える為に、恋愛漫画までフェルマーに借りて勉強したのにー。そんな言い方ないよー、ぶーぶー」

 まるで幼い子供のように頬を膨らませてパスカルさんは文句を垂れてくる。唇はアヒルのように突き出されていて、いったいこの人が幾つなのか判断がつかない。
 たしか、ぼくよりも年上のはず・・・・・・なんだが。
 
 ・・・・・・。

 まぁ、そんな事を考えても仕方がない。ぼくはこの人を好きになってしまったのだから、この破天荒で突拍子もないけど、だけど、優しくて可愛らしくて明るくて。言葉に表せない程魅力的なそんな部分に引かれてしまったのだから、今更何を言っても仕方がない。
 ぼくはもう一度深く溜息を吐くと店を出る為に立ち上がった。

「だから、今からその可能性を打ち消す為に養父に会いに行くんでしょ。そんなバナナパイ塗れの顔で養父に会ったら、本当にそんな未来を見てしまいますよ」

 そう言ってやると、慌ててナプキンを手にするパスカルさんが視界の端に映る。その必死な様子に僕は笑みを零した。

 
パスカルさんが考えてきた未来の可能性が空想で終わるか、現実となるか。それはすべて、今日これからに決まると思うと緊張で胸が震える。養父はパスカルさんを気に入ってくれるだろうか。パスカルさんは大人しく、お淑やかな女性を演じてくれるだろうか。過大な期待はしていないが、自らこの機会を潰すことはないだろうか。ぼく達の未来が決まるとすれば、それは大方パスカルさんの努力とぼくの誠意だと思うけど、でもぼくはそんな悲しい未来よりももっと別の可能性を手にしたい。
 いや、手にするつもりで後を追いかけてきたパスカルさんの手を取った。










それは可能性の問題です。(10.10.22)