吐き出した息が白く濁っていた。春先の告げる足音が聞こえるといえども、朝は酷く身を引き裂く。寒気を含んだ風が鼻先を掠めるように吹き、朝日に照らされた州城前は霜が降った為かほのかに白くなっていた。だが、その霜が顔を出した太陽の光を浴びて光彩を放つ。今日は温かくなるかもしれない。志美は、馬に荷を括りつけながらもそう思った。
「でもまさか、お前が来るとは思わなかったわァ」
馬を挟んで対面している男に対して、うんざりした顔で言い放つ。
王と共に紫州に発つ。それは事前に州官に通達していた。と、同時に見送りはいらない。各自、自らのするべき事に専念しろ。そう、通達もしておいたはずだ。だが、この目前に佇む男は普段と変わらぬ顔、変わらぬ姿で志美を見送りに来たと口にした。朝早くとも、官服をきちんと着こなしているのは男の性格だろうか。戦場に向かう最後に見る顔がこの男だと思うと、何故か妙に落ち着かない気持ちになる。
「当たり前です。副官として、貴方が王と共に行くのを黙って見送るわけにはいきませんから」
「つーか、だから余計にお前が来ると思わなかったのよ」
「何故です?」
当然のように言い放たれ、志美はたじろぎ視線を彷徨わせる。突き刺さる荀ケの視線は鋭く、逃げ道など許してくれなかった。頬に当たる風が身を切る程に冷たいはずなのに、どこか心地よい。
何故。
そんな事、問わなくても本人も察しているはずだ。
和解したとはいえ、自分と荀ケの間には相容れぬ溝があったはず。それは重ねた年月程に深まり、互いを知れば知るほど距離を取る。つまらない男の矜持と譲れぬ官吏としての矜持として、重く志美の心に降り続いていた。
確かに、あの一件以降は荀ケの心の内が多少はわかるようにはなったが、それでも――。
「君は僕の事が嫌いだろう?」
「ええ、確かに好きではありませんでしたね」
荀ケが溜息を吐くように言葉を零す。柔らかな白い吐息と共に、空気に溶けて行く。
「ですが、それはそれです。私は今、貴方の副官として貴方が立派に州牧としての任を全うするのを支えるという役目があります。これも、それの一つですよ」
淡々と告げる言葉の意図が計れない。実に合理的、現実的な彼らしい言葉ではあるのに、その瞳の奥に何かしら隠しているような気がする。
居心地が悪い。このままさっさと発ってしまおうか。
だが、それを制するように足が微動だにしない。冷気に凍りついたかのように、地に根を張り、意志の力ではどうにかできるものではなかった。
怯えているのだろうか。
そう思わない事もない。遙か昔、まだ世界が随分と荒れていた時代。志美が少年兵として戦場を駆け抜けていた時代。あの頃には感じる事がなかった怯えが、この胸に去来する。それが死に対してなのか、自分の官吏生命を賭けて守り抜こうとした者達を残している事に対してか。この戦に勝機が見えぬ限り、その思いが払拭される事はない。
戦場で生きた過去があるからこそ、感じるのかもしれない。王と旺季の戦はよく言っても互角とは言えない。軍前の数だけでもその差は歴然で、志美はこのような戦いを過去に一度しか体験した事がなかった。
あの時は死ぬ気はなかったが、今回はどうだろうか。
紅州を救ってくれた王とこの紅州を守り抜けるならそれも王の臣下として、州牧としての一つだろう。それに対しての怯えは何一つない。ろくなものが掌になかった自分にとっては、充分過ぎる程の人生だ。
だが、耳に残る秀麗の言葉。
そして、荀ケの妙な態度が胸に引っ掛かりを覚えさせる。
足を凄ませ、生にしがみ付けと言ってくるようで、志美は寛大に呆れたように大袈裟に溜息を吐いた。
「あっそー。仕事熱心な副官を持って、僕ってちょー幸せものだねー」
荀ケの顔を見る事ができず、顔を逸らした。霜に反射した光が眩しくて瞳を細める。
飛蝗に食い尽くされたと思っていたのに、今、この地は徐々にだが前の形を取り戻し始めている。厳しい冬を耐えて、春の音を告げるかのように枯れた大地からは芽吹き、緑を肥やしていく。
もしかしたら、この先が見れない。そう思うと残念だ。だが、後悔はない。もしもの話、戦に負けたとしても旺季の事だ、この紅州をどうこうする事はない。それに、ここには荀ケがいる。仮にも旺季一派である彼がいる限りこの紅州は安泰だ。愛するこの州の民はこの先も生き続ける。
「本当に、君がいてくれて僕は幸せ者だ」
零れた言葉が、先ほどの荀ケの言葉と同じように空気に溶け行く。
溶けて行くのだと、思っていた。
「劉州牧」
名を呼ぶ声の方に顔を向ける。
「――っ!」
そこには立礼ではあるが、最も高貴な者に向ける礼をこちらに向けている荀ケが立っていた。
敬意の立礼。
そんなものを向けられた事は一度としてない。荀ケ、そして州官からも。
「貴方がこの州城を開けられる期間、この身を挺して貴方が守り抜いたこの紅州を守り抜きましょう。どうかご無事の御帰還を。私は貴方のいない世界より、貴方が生き、貴方が作るこの紅州を共に見て行きたい。今でもそう思っています」
咄嗟に言葉が出てこなかった。
「荀ケ」
名前を呼ぶのすら精一杯で、先が続かない。驚愕した。歓喜で心が震える。涙が零れそうになる。止める事のできない感情のうねりが志美の内面を這い回る。
わかるのはただ一つ、荀ケが心からそう思ってくれているという事。
苦笑が零れた。彼にではない、自分にだ。彼がいれば、この紅州は安泰だ。そう思った。以前とは違う、また別の感情として。男の矜持とも官吏としての矜持とも違う。ただ、彼がいてくれればこの紅州は守れる。そこには自分はいない。自分の知らない未来が広がっていたとしても、それでいい。この紅州が、彼らが無事なら。そう思っていたのに……。
「……それは、副官として?」
「そうですね。仕事に私情を挟むのは感心しませんが、これは貴方の副官としての私個人の想いです」
荀ケが平時と変わらぬ様子で、顔を上げる。その表面には変化は見られない。
それが悔しくて、可笑しくて、再び志美は苦笑を零した。なんだ、自分の内面はこんなにも乱れているというのに、この男の落ち着きようは。まったく、これだから有能な副官は困る。有能過ぎて、出し抜いたと思ったのに再び出し抜かれてしまった。まったく、本当に。なんだというのだ。
また、負けてしまった。
「ありがとう、荀ケ。そうだね、私情を挟むのは申し訳ないけど、僕も今度こそは好きな子を失わずに済む世界を作りに行ってくるよ」
「は?」
「ああ、こっちの話」
いつの間にか太陽の登り切った空を、一羽の白い鳥が飛んで行く。青に映える、綺麗な色だった。
王と少女を思うと、自然と記憶の奥底にあるあの少女姫の事を思い出す。もう、あんな思いをするのは自分達の時代だけで十分だ。ここには待っていてくれる人もいる。確実に一人は。それだけで、なんて幸せなんだろうか。
今度、帰還した暁には再び勝負を挑もう。それは州牧としてではない、志美の男の矜持を保つ為に。
「それじゃ、紅州は頼んだよ」
ひらり。そう、軽やかに馬に跨ると単身州城を後にした。
発つ鳥、かの人を想う(11.11.10)