煙管が欲しい。志美は閉じた瞳の奥で思った。矢が刺さった腕は的確な応急処置と医者のおかげで痛みはすれどもこの先の人生に支障はなかった。今後しばらくの州牧としての生活には支障で出まくりかもしれないが、それでもこの腕一本で事なき終えたのだ安いものだろう。あの荀ケを出し抜く事ができたのだ腕一本でお釣りがきたと思えば儲けものだ。
 だが。

「痛い……」

 寝台に横たわった体を少しずらすだけでも億劫で包帯の巻かれた箇所に激痛が走る。じくじくと蝕むような痛みが響く。志美は眉根を寄せた。あのクソ医者め痛み止めをけちりやがったな……、声には出さずに自分を治療していった医師を罵倒する。腹が立つ。痛い。それが余計に神経を刺激し、志美は感情に飲まれそうになる思考を払うように息を吐いた。本当の所は煙草で気分を紛らわしたい所だがそれは傍に控える州伊が許す事はしないだろう。暗い視界の中でもわかる、今も尚こちらを見張るような視線を。州府で感じていたそれよりも、ほんの少しだけ体感温度は優しくなったような気はするが。それでも真っ当な人間であった部下は真っ当な感情をこちらに向けていた。煙管が欲しい。もう一度吐き出したそれは紫煙も上る事もなく、ただ体内に貯まった悪玉菌を排出して清浄化していくかのようで少し気分がよくなった。

「荀ケ、答えはわかってるけど僕の煙管頂戴」
 
包帯の巻かれていない方の手を伸ばす。瞳を迷う事なく部下にぶつければ、相手も戸惑う事もせずに手荷物が置かれた机案から煙管を手に取り懐に仕舞う。予想していた通りの行動だ。

「ダメです。医者にしばらくは体に障るからと喫煙を言い渡されたでしょう」
「だよねー、君にちょっとでも期待した僕がばかだったよ。あー、やになっちゃう!!痛いし、つらいし、煙草はだめだし!!」
「……」

 返す言葉を持たない荀ケを志美はついっと目を細めて見た。部下の視線はこちらを見返す事はもうなかった。如何なる時も志美に真正面から対面してきた男が顔を逸らしたのは例の件とそして、今。できた、真っ当な人間だからこそ抱え込むであろうその心情を察し志美は一度瞠目する。同じ年だ。50も過ぎたいい大人だ。だからこそ言えない一言もあるのだろう。折れたとしても、その実何年も見下してきた男に。部下の不始末は上司の不始末。それと同じだろう。幸い、志美はその言葉を何とも思っていなかった。この負傷も結局は自分の為にやった事。目の前の副官を殺されるのを許せなかった。色々と先延ばしにしてしまった己への罰。自業自得だ。だから、少し猶予をやろうと思った。自分も自分に腹を決める猶予を与えた、それと同じものを彼へ。それを荀ケがどう使おうと勝手。腹を決めるか、言葉すら忘れてしまうか。それは、彼次第だ。

「だからさ、柚子茶作ってきてよ」
「はぁ?」
「執務室の机案に隠してあるから飛蝗にも荒されてないだろうし、僕は飲みたくても動けないし、君は僕の副官だし。君は僕の補佐をする役目があるなら怪我した僕を献身的に介護する役目もあると思う、だからほらほら早く柚子茶を作ってきてよ」
「……まったく意味がわからないのですが」

 荀ケは渋々と腰を上げる。納得しきれていないというのが表情にありありと現れていた。だが、それでも動こうとするのは負い目を感じているからか。志美の目線からしても、かなりイイ線を行くおじさん州伊の彼が、今はどこか草臥れたただのおじさんにしか見えなかった。勿体ない。努力しても敵わないそれが手に入らない事だってあるのに。勿体ない。正直、この男には嫌な顔が似合うと思う。自分に向けられる嫌な顔。呆れ。小姑のようにぎゃんぎゃんと小言を耳元で言っていればいい。

「きゃー、荀ケ素敵!!僕があと20歳若かったら手を出してたかもしれないよー!!」
「30歳若くてもお断りです!!!」

 場を和ませてやろうと投げかけた冗談も即座に叩ききられる。だが、彼はこれくらいでいい。眉尻を寄せ、眉間に深い溝ができていた。瞳に映る感情は軽蔑にも見て取れる。志美はこの表情が見たかった。そう思った。ただ、単純に。この副官のこの表情が好きなのかもしれない。

「……劉州牧」

 唐突に荀ケが志美の名を呼んだ。志美は体を傾ける事はせず、室を出て行こうとする副官に視線だけて答える。

「正直、あなたに同情や気遣いを向けられるなんて気持ちのいいものじゃありません。ましてそのあなたに命を救われた上に怪我まで負わせたと思うと、自分はどうかしていたんじゃないかと壁に頭をぶつけたくなりますよ。ですが、感謝しています」

 それは名誉の負傷に対してか、それとも気遣いの猶予に対してか。荀ケは曖昧な言葉で濁すようにそれだけ告げるとそそくさと室を後にする。パタパタと冷静沈着な彼らしくない足音が回路に響く。なんだ、やっぱりイイ線いったおじさん州伊じゃないか。室を出る一瞬、志美の瞳に映った荀ケの顔。自嘲的な笑みの中に含まれた吹っ切れたような微笑み。その笑みを思い出し自然の志美の口角も上がる。

「あーあ、本当に残念。もっと若かったら本当に手を出してるのしさー」

 失わなくてよかったと単純に思う。友人の死を二度と見たくないそんな単純な理由だったが、本当にあの副官を失わなくてよかった。彼とは何だかんだと因縁がある。決して心地良い関係でもない。だが、まぁこれからはもう少しより良い関係を築けるのではないだろうか。負い目なんて感じなくていい、ただ自分は自分の副官を手放したくなかっただけなのだ。などと志美は思いながらそっと瞳を閉じた。






始めの終わりにて(11.07.11)