轟々と強風が宿の扉を叩きつける。木製の扉は、その度にガタガタと音を立て、隙間からは冷気が忍び込んだ。外は吹雪なのだろう。マリクはチラリと扉の方に目を向ける。深夜に近づく度、風は強さを増し、時折、暴風に宿が揺れる気がした。
このベラニックにおいては、特別な事ではない。自然の驚異と常に隣り合わせな、この地方は、毎年寒波に見舞われる。それに比べれば、この程度の吹雪などたいした事ではないのだろう。宿の女将も何一つ言っていなかった。この地方で暮らす人間にとっては、当たり前の現象。
ただし、この旅で初めて目にした雪に驚いていた少女、ソフィにとってはこの程度の強風や吹雪でも一驚する出来事なのだろう。世界を巡り、何度かこのベラニックに訪れたと言っても、ここまで酷い吹雪は初体験だ。先ほどから、頻りに扉に視線を向けていた。
「雪の女王が迎えに来るか、不安なのか?」
 軽い音を立てて、彼女の前にホットミルクを置いてやる。あと、興味を引きそうな話題も一つ。
 ソフィは、ほかほかと湯気をたてるそれを両手で包み込みながら、視線をマリクに向けた。カウンター越しにバーテンダーの真似事をする彼は、椅子に腰かけた状態では、いつもより見上げなければいけない。オレンジ色の仄かな人工的な光が、男の精悍な顔を照らし出す。その顔が、愉快そうに微笑んだ。
「雪の女王?」
「ああ。フェンデルには言い伝えがあってな、こんな吹雪の夜は、悪い子を雪の女王が攫いにくるんだ。そうして、その悪い子を氷漬けにして食べるんだと」
「氷漬けにして……」
 ぽちゃん。マリクは自分のグラスに注いだウイスキーの中に、浮かぶ氷を軽く揺らす。まるで、それが氷漬けにされた子どもだと言わんばかりに。カラカラと固い音を立てて、グラスと氷がぶつかり合う。
「わたしも連れていかれちゃうの?」
 不安気に、ソフィの眉が寄る。
「そうだな、こんな夜中まで起きている子は悪い子だと思われてしまうかもしれんな。もう、アスベルやシェリアは寝てしまったんだろう?」
「でも、パスカルはまだ起きてるよ? お部屋でね、ズギューンとかバキューンて言わせてた」
 その調子だと、シェリアも起きているのだろう。深夜近くにも関わらず、研究を遂行する傍迷惑な仲間の顔をマリクは思い出す。能天気で、空気など読む事を知らず。今も尚、周囲の迷惑に気が付いていない女性を。
「あいつは、一応大人だからな。雪の女王は肌が柔らかで美味しい子どもしか、食べないんだ」
「教官も大人だから、食べられないの?」
「ああ。俺だと肉が固くて女王は噛み切れない」
 ソフィは納得したように頷くと、カップに口をつける。
 氷を噛み砕く女王が子どもより引き締まっているとはいえ、人間の肉を噛み切れない訳がない。そんな、矛盾点にすら気が付かないまま。素直な彼女はこくん、こくんと蜂蜜入りの甘いホットミルクで体を温めた。
 その様子に、自分もグラスに口づけながらマリクは瞳を細める。
 そういえば、以前もこんな事があった。初めて、ベラニックに訪れた夜。その時も彼女は夜中にベッドを抜け出し、マリクの傍に寄ってきていた。あの時は、マリクもソフィも先への見えぬ不安から目が覚めてしまったのだろうが、今夜は違う。最終決戦が控えているものの、それに対しての不安は仲間内で誰一人感じていなかった。
 信頼。
 その言葉がなせる業。このベラニックに立ち寄ったのも、すべてを終えた時に清々しい明日を迎えられるようにと。アスベルの提案で、宿の依頼を完了させる為だった。
 ならば、ただ、この吹雪に脅えてしまったか。寒さに目が覚めてしまったか。考えて、マリクは前者の可能性を否定した。彼女において、何かに脅えるという事はないだろう。物理的な何かが、彼女に恐怖心を植え付けるのは、到底不可能な事だ。ソフィに脅えを齎すとすれば、それは、仲間に関する事。古からの使命がそうさせるのか、彼女は守る事に固執している所がある。それが、崩壊した時。彼女はその底のない恐怖に脅えながら、立ち向かうのではないかと思った。
 だが、これはそんなものではない。ただの自然現象。そう説明すれば彼女はすんなりと納得するだろう。ただ今は、マリクが口にした昔話のせいで、意識は別の方にいってしまっているかようだが、瞳の奥には隠しようもない影が見え隠れしていた。
「では、ソフィにとっておきの眠れる魔法をかけてやろう。サイコロトークだ」
 カウンターの上に、お馴染みのサイコロを転がす。コロコロ。毎晩恒例のサイコロトークに使用する、サイコロをソフィの前に転がしてやった。
途端にソフィの瞳が輝く。
「魔法?」
「このサイコロはいつものサイコロとは違い、女王を退ける魔法がかけてある。これでソフィは女王から見えないし、子どもの匂いもしない。魔法のサイコロだ」
 恐る恐るといった様子で、ソフィがサイコロに触れる。人差し指で。ちょんと、突くように。また、サイコロが転がった。
「すごい、教官も魔法使いなの?」
「オレのばあさんが魔法使いでな。これはばあさんに貰った、とっておきのサイコロなんだ」
「教官のおばあちゃんが魔法使いなんだ!」
 驚いた。ソフィは豊かになった表情で、そう顔全体に驚愕の色を表すと、まじまじとマリクの顔を見た。
 疑う様子は微塵もない。男の紡ぐ言葉一つ、ひとつが真実であるかのように彼女は受け入れた。これも、純粋であるゆえに成し得る技なのだろうか。
 ソフィは、掌にすっぽりと収まる小さなサイコロを、普段と変わらぬ様子で転がした。カウンターの上を滑るように、コロコロと転げてゆく。どのマスが出るか、この時ばかりは胸が高揚すると、ソフィは思った。
 六の数字。
 マリクはそれを目にして、ふむっと一人考え込む。その数字は普段ならば、今日の当たり目として相手が出したお題目で、自由に話題を楽しむ為に使われる数字。だが、今の彼女の様子からして、その数字は望ましいものではなかった。
 恐らく、ソフィは――。
「その数字は、教官への質問……だな」
「今日の当たり目じゃないの?」
「ああ、このサイコロは特殊だからな。いつものサイコロとマスの質問が少し異なるんだ」
 ソフィの唇が一文字に閉じられる。何かを考え込むように。カップを掴む、小さな手に力が籠った。
「あのね、教官。教えて欲しい事があるの」
 やはり。マリクの推測が正解の鐘を鳴らす。
 深夜近くに、部屋から抜け出してきたソフィ。眠れないのは吹雪で宿が軋む音が怖いからでも、寒さに慣れていないからでも。ましてや、雪の女王から招待状を受け取ったからでもない。
 心の中に、疑問や不思議な感情があるから。
 これ、だった。
胸の内に溜まった解決できない感情を持て余し、ソフィはこっそりと深夜でも起きている。そして、自分の質問に答えてくれる相手を選んで起きてきたのだ。この場合、同室のパスカルを選ばなかったのは、彼女に下心があるからかもしれない。何かにつけてソフィに触れようとする、邪心塗れの下心。ソフィの中での疑問は、それに繋がるようなもの。と、考えていいだろうと、マリクは心の中だけで呟いた。

「キスって、何?